第8項 プロスペクト理論とナッシュ均衡

フォルス係長の目には悲哀の色が光っていた。

「この国は、既にグローバルの競争では戦えない国になってしまっているのです。メルッショルドは、世界中から資本が集まってくる魅力的な国です。金融経済からの税収も高く、その税金を回すだけで経済が回っているように見えています。しかし足元の実体経済はもうボロボロ。足腰は衰え、立たぬようになってきている」

「だからこそデロメア・テクニカの機械でやり直そうというのだ」

ミシェイルは強く言ったが、フォルスは首を振る。

「国民は、大多数の国民は変化を望んでいません。足元はボロボロでも、この仕組は上手く出来ています。時代遅れの機械でも、国が税金を投入すれば生きながらえることができます。新しいビジネスを取り入れる必要など無いのです。

国と一体となって税金を回すだけでも、あと10年は持つでしょう。だとすれば10年以内に引退する人たちが保守的になることも理解できます。自分が何十年、働いて目標にしてきたポストも目の前に見えているはずですからね。彼らにとって、経済システムを変えるメリットはありません。そしてこの国を動かしているのは、彼らだ」

フォルスもこの国の経済を憂い、変えられないと悟っていた。そして彼は、既にこの国のシステムの中で生き抜くことを誓ったのだろう。それでも——。

「フォルス係長、あなたはあと30年生きなければいけないのだ。30年後にこの国が自立できるようにすることが、省庁の役割なのではないのか? 今血を流し、多くの企業が倒産しようとも、将来得られる利益を鑑みれば仕方のない犠牲だと考えることは出来ないのか」

「プロスペクト理論という理論があります。人は利益を得る場面ではリスクを優先して回避し、反対に損失を被る場面では損失を可能な限り回避しようとするのです。この場合は、企業は倒産という損失をしたくない、ということです。例え将来大損をしようとも、今損失を出したくないと考えるのが大部分の企業の考えです。だとすれば、損失を出さないということが国民の大意なわけです。省庁は、国民の大意を無視して仕事はできません。だから我々は、現状を維持しようと務めている。それが国民の大意だからです」

フォルスはまた、政治家のテンプレートのような回答を返した。

「フォルス係長。国民の意見がいつも正しいとは限らないよ。特に今のような、有事の際は」

「わかっております。それでも私は一介の係長に過ぎませぬので」

フォルスは礼をし、その場を立ち去ろうとする。ミシェイルは声色を荒げて言う。

「ナッシュ均衡、という言葉がある。囚人のジレンマと言ったほうが伝わりやすいかもしれないな。個人の最適化を図ろうとした選択が、結果として全体の最適選択とはならないというゲーム理論のモデルだ。

このゲーム理論に則って考えれば、メルッショルドの国民が愚かな選択を行おうとしていることがわかる。今あなたに与えられた選択肢は2つだ。このまま時代遅れの工業農業を保護するか、最先端の技術を取り入れて新しい産業体系を構築するか。そしてゲームプレイヤーはメルッショルドとデロメア・テクニカの2国で、それぞれが100の資産を持っているとしよう。結果として起こり得るのは3つしかない。

・どちらかが最先端の技術を取り入れ、もう片方が取り入れない場合、取り入れた方は90の資産を失うが、2分の1の確率で1000の資産を得る。取り入れなかった方は90の資産を失う。

・どちらも最先端の技術を取り入れた場合、双方は90の資産を失うが、2分の1の確率で500の資産を得る。

・どちらも時代遅れの工業農業を保護する場合、資産は変わらない。

先ほどフォルス係長が言ったプロスペクト理論の通り、人々は損失を被る場面では損失を可能な限り回避しようとする。だから時代遅れの工業農業を保護するという、資産を失わない選択肢を取りたいと願う。

だがフォルス、プレイヤーは1人ではないんだ。デロメア・テクニカが最先端の技術を取り入れている以上、我々も賭けに出るしかないんだよ」

「作り出された数字には興味はありません」

フォルスは手に持った帽子を深々と被ると、その場を後にした。

 

「数字づくりの得意な人間が何を言う」

ミシェイルは立ち去るフォルスの後ろ姿を見、苦笑いを浮かべていた。

「しかしどうする、ミシェイル。これで国に協力してもらう線は消えてしまった」

「そうだな。しかも今の話を聞くと、この国の産業構造全体が現状維持という病に冒されている。国に庇護してもらってようやく生きながらえている病人だとわかった。ならば企業に救いの手を求めることもできないだろう」

「八方塞がりか」

クライアントは空を見上げた。だがミシェイルはまだ目の輝きを失っていない。

「クライアント、行くぞ」

ミシェイルは黒いジャケットを翻し、歩を進めた。

「ちょっと待て、行くって、どこへ行こうというんだ」

「国も企業も頼れないのなら、俺達が事業を起こすしか無いだろう」

ミシェイルの突飛な発言に、クライアントは資本金が無いと眉をひそめた。そんなクライアントへミシェイルはただ一言、ゴッズ・ヴァルスという名前を告げた。

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