第10項 熱力学と鋼の世紀

カリアスとユンケルは、わずか3ヶ月でハーバー・ボッシュ法を確立した。
ジェダがペニシリンの工業化を実現したのも、それと同時だった。彼女の恐るべき才能は、ペニシリンの工業化にあたって必要な氷点下での作業を行うために、熱力学の4大法則。すなわち第0の法則である熱平衡、第1の法則であるエネルギー保存、第2の法則であるエントロピー増大、第3の法則である絶対零度でのエントロピー0を理解し、加えてボイル・シャルルの法則と、熱力学の起点となったカルノーサイクル、ジュール・トムソン効果を理解したことだ。
彼女は、熱力学が巨視的な法則であることを理解していた。原子や分子を1個取り出して、熱いか冷たいか、液体か個体かを問うことに意味はない。熱力学とは、ある程度まとまった分子の塊が、どういった振る舞いをするかという巨視的な法則を探る学問なのだ。
分子1つ1つの性質に焦点を当てる化け学とは、相容れない存在である。これによってジェダとユンケルは、ますます話が合わなくなったのは想像に難くない。しかし彼らが協働することで、人類に新たな扉が開かれようとしていた。
ジェダは、高圧液化ガスが蒸発する際に、周囲の熱を奪うことを理解できた。これは2300年前の科学文明で用いられていた、冷却技術の基礎である。つまり冷媒となる気体を圧縮して高温にした後、冷却水で熱を奪って高圧液化ガスを作り、この液化ガスを低圧環境で蒸発させれば、周囲の熱を奪うことができる、ということだ。今の彼女にとっては、氷点下を作り出すことも容易だ。
ジェダは優れた冷媒の開発について、カリアスへ意見を求めた。
カリアスはハイドロクロロフルオロカーボン(HCFC)を冷媒として勧めた。これは炭素、フッ素、塩素に水素を加えた化合物である。彼はそれが何を意味するか理解していた。無毒、無色、無臭、不燃性、科学的に安定しているという、一見夢の物質に見えるHCFCは、この時代の人々では到底理解することの出来ない、リスクを内包している。それは大気圏に存在するオゾン層の破壊だ。
カリアスは、ジェダやユンケルの時代、既に多くのオゾン層が破壊されていることを知っていた。この世界の死因トップは皮膚ガンであり、それは2300年前にオゾン層が破壊しつくされ、紫外線量が増加した結果でもある。
HCFCを推薦することは、このオゾン層の破壊をさらに進めることを意味していた。カリアスはもちろん、HFCというオゾン破壊係数がゼロの冷媒(中でもかつてR32と呼ばれた温室効果の低い微燃性のガス)の採用も検討した。だがそれらは高圧高密閉性が必要となり、費用と技術レベルの面から安全性を確保した製品化に時間がかかる。環境に配慮するのは、人間が生き残ることが出来てからでも遅くはない。

***
「孫達が躍動しておるわ。わしも負けてはおれんな」
ガストン・レオパルドはそう言って笑った。
小さな科学にフォーカスした孫達と異なり、ガストンは巨大な資金力を背景とした大きな科学の進歩にフォーカスしていた。彼が注力していたのは反射炉の改良である。反射炉とは鋼(鉄の持つ性能を高めた合金)の鋳造のために用いられる炉で、燃焼室で石炭を燃やして発生させた熱を、壁や天井に反射させ、温かい空気を別室に集めてそこで銑鉄(鉄鉱石から製造した不純物を含む鉄)を燃焼させる方法である。しかしこの方法は時間がかかる上に鋼の生産量も少なかった−−デロメア・テクニカの国家プロジェクトとしてビルを建てる程度には生産ができたが、あらゆる国で鋼を使うには不足していた。
ガストンはこの難題の解決を目指した。だが何事も自分自身でやらなければ気が済まない性格のガストンは、カリアスに知識を求めなかった。とはいえ彼もカリアスの言葉に聞き耳は立てており、カリアスの漏らした一言に新たな着想を得た。
『銑鉄が生み出す熱気だけで、銑鉄を鋼に変化することはできないだろうか』
これを聞いたガストンは、転炉の構想を思いつく。つまり溶けた銑鉄に高圧の空気を送り込むと、供給された酸素が炭素と酸化して熱を発し、最終的に銑鉄を鋼に変えるのではないかという仮説だ。この構想を机上検討する上では、ユンケルによって解明された化学式、ジェダによって解明された熱力学が役に立った。ガストンが最終的に設計したのは回転軸上に設置された洋ナシ型のバケツだった。これは奇しくも、2500年前ベッセマー法で用いられた炉と限りなく近かった。
カリアスは、ガストンのアイデアが次に躓く問題。つまり鉄鉱石に含有する不純物、リンと硫黄、転炉で新たに加えられる酸素の除去についても、密かなヒントを出していた。つまりリンと硫黄を取り除くための生石灰。酸素を取り除くための脱酸剤フェロマンガンの存在である。カリアスはユンケルを使ってガストンに、これらの素材の存在を伝え、ガストンがまるで自分の力で発見したように錯覚させた。こうしてガストンのプライドを損なうこと無く、人類の工業を支える製鉄産業、その最大の革命である転炉法を実業に移した。
化学肥料の誕生、抗生物質の量産、熱力学と冷却技術の発展、製鉄の工業化。
人類が戦うための剣が次第に整いつつあった。
デロメア・テクニカでは毎年、優秀な開発者に国民栄誉賞が送られる。この年、レオパルドの血筋が生み出した発明の数々は、どれも人類にとって有益なものだ。誰が国民栄誉賞を受賞するかは、選民選挙によって選ばれた議員の挙手投票によって決まる。綺羅星のような発見の数々に、議員たちも目移りしていた。結局、国民栄誉賞は僅差でジェダに送られることとなった。人類の命を守る発見だということが評価された。だがこの結果に異論を唱えたものがいる。チョパルキン・バルディッシュだ。

第1項 刑務所から始めよう

第2項 ダイナマイトと時の歯車

第3項 科学発展の基礎

第4項 魔女狩り

第5項 自由意志と豆の木

第6項 プラチナブロンドの兄妹

第7項 心の相互作用

第8項 科学者の協働

第9項 アトム

第10項 熱力学と鋼の世紀←いまここ

第11項 電磁気の姫

第12項 マイノリティカルストラテジー

第13項 電気椅子とキャズムの溝

第14項 プロジェクトレボリューション

最終項 ギブ・アンド・テイク

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