エスカリョーネの全身を憎悪が包んでいた。彼女は強い意志でその憎悪が行動に現れないよう、歯止めをかける。

(どうしたの?フレスヴェルグ、らしくないよ)

『アイツダ』

エスカリョーネの右腕にフィンブルヴィンテルの風が生まれようとしていた。

『ア・イ・ツ』

(だめ!!)

エスカリョーネは、左手で右手を抑える。

(フレスヴェルグ、落ち着こう。まずは私に話して。何も知らないまま、誰かを傷つけるなんて、私はしたくない)

フレスヴェルグの憎悪がおさまる。

『すまない。お前に助けられた。感謝する』

「どういたしまして」

エスカリョーネは苦笑いを浮かべた。

 

その時、1人の少年が、エスカリョーネに向かって呟いた。素振りでもした後なのだろうか。手には木刀を持ち、額には汗を流している。

「体調悪い」

「え?私?あ、大丈夫だよ!ありがとう」

「それならいい」

「んん?」

会話がいまいち噛み合わない。エスカリョーネは、怪訝な顔をした。少年はそんなエスカリョーネの反応は無視して、テントの中に入っていく。

「ちょ、ちょっと!?そこ私のテントだよ」

「え?」

今度は逆に少年が怪訝な顔をする。

「ここは俺のテントだ」

「あー、わかった。整理させて。このテントは2人用なんだね!それで私とあなたが同居人!そうでしょう?」

「たぶん」

少年は小さく頷いた。

「うん、そうに違いない。我ながら名推理。でも、イプシロンさんも一言くらい言ってくれればいいのにね。びっくりしちゃった。お、男の子と一緒のテントなんて、ねえ」

「俺は気にしない」

エスカリョーネはずっこける。

「あ、あなたは良いかもしれないけど、私が気になるの!着替えとか覗いたらしばくからね」

エスカリョーネの言葉を無視して少年はテントへ入っていった。

(うーん、いまいち会話がつながらない。大丈夫かな)

「ちょっとー、あなたの名前なんていうの?」

エスカリョーネもテントの中を覗くようにして入っていく。少年は体についた土を払っていた。

「エンドラル・パルス」

「エンドラルくんかー。かっこいい名前じゃない。男の子に生まれたらつけて欲しい名前だね。エスカリョーネはどうかな?私は気に入っているんだけど」

エスカリョーネが1人でしゃべるのを横目に、エンドラルはごろりと横になった。そして一言だけ言う。

「可愛くない」

「そ、そうかな。まあ強そう、かな?でもね、エスカって呼んでみて。意外と可愛いって思うかもしれないよ。あ、疲れた?ごめんね。静かにするね」

エンドラルはすぐに寝息を立て始めた。

エスカリョーネはがっくりと首を下げた。

(私も何だか疲れちゃった。もう寝よう)

エスカリョーネはエンドラルがぐっすり眠っているのを確認すると、上着をゆっくりと脱いでその場に畳んで置いた。それから、テントの中に折りたたんで置かれていた薄い毛布を羽織ると、天井を見上げながら考える。

(明日から、この子と上手くやっていけるかな。レンジャーの一員なのか。年齢も聞けなかったな。明日はもっと、話してみよぅ)

そこまで考えるとエスカリョーネも眠りに落ちた。

ゆっくりと眠ることが出来るのは久しぶりだ。彼女は両親の夢を見た。それはとても幸せな夢で、けれど起きた時には消えている、夢だった。

***

 

翌朝。エスカリョーネは胸元の違和感で目が覚めた。

見ればエンドラルの左手が、エスカリョーネの乳房をわしづかみにしていた。エスカリョーネは深呼吸を一度してから、エンドラルを蹴り飛ばした。テントの支柱に頭をぶつけたエンドラルが頭をさすりながら、むっくりと起き上がってくる。

「何すんだよ」

「それはこっちの台詞よ。言ったよね。着替えとか覗いたらしばくって」

「覗いてないだろ」

「胸触るとかもっとダメなの!今夜からはルール改正ね。あなたはテントの3分の1から出ないこと。わかった?」

「頭に響く」

エンドラルは毛布をかぶった。エスカリョーネはその毛布を取りあげて、耳元で再度怒鳴った。

「わかった?」

「はい」

エンドラルはふてくされて言った。

「よろしい。さて。じゃあ朝のお勤めはじめよう?ちなみに、お姉さんは何をすれば良いのか、全ッ然わかりません」

「掃除」

エンドラルはぼそりと言った。

「テントの中を掃除して、それから皆の朝ごはんを作るために炊事場に出る」

「なるほどね、掃除から始まるんだ。気持ちいいね。それじゃあこれからはテントの中に土を入れないようにしないとね。炊事場は近くにあるの?」

「歩いて5分ぐらいのところにある。俺は川から水を汲んでくる。エスカリョーネは野菜と肉を切ってほしい。包丁は使える?」

「任せて。両親と一緒に住んでいた頃はよく料理もしていたから。献立は決まっているの?」

「カレーを作る。肉と野菜の香辛料煮込み」

「へぇー。肉や野菜を煮込んだものなのね?私の故郷にはなかった料理だなぁ。やっぱり国際連合だから、色々な国の食べ物が出てくるのかな?」

エスカリョーネはキラキラと目を輝かせる。

「わりと。それでもカレーが多いと思う」

「ほうほう、カレー好きな人が多いのかな」

「1人だけ」

「1人?」

エスカリョーネの問いかけに、エンドラルはこくりと頷いた。

「先生」

「先生?それって、誰の先生なの?」

「俺たちの先生。たぶん、エスカリョーネも習うことになる」

エンドラルはそれだけを言うと、まずは食事だと言って外へ向かった。

エスカリョーネは『先生』がどんな人かを気にしながら、料理に取り組んだ。料理をしている最中、ミストルティンとの再会もあった。彼女は既に前日から魔法の修行にとりかかったのだという。

ミストルティンは興奮を抑えきれない様子で言う。

「サンスポットさんは凄い人だよ。教え方も上手で、先生みたいだった」

「へぇー、よかったね。ミストが大魔法使いになっちゃったりして」

「そんなに簡単には行かないと思うけど、頑張るよ。エスカの方はどう?」

「どうだろうなー」

煮込んでいるカレーをかき混ぜながら、エスカリョーネは天を見上げる。

「ビスマルクさんは怒ってるし、リーダーは師匠って呼ばれて気持ち良くなってたし、変な同居人がいるし。昨日一日でどっと疲れたよ」

「あはは。エスカの周りは相変わらず楽しそうだね」

「賑やかだよ。ミストとも一緒に働けたら良いのにね」

「レンジャー部隊、だよね。自己裁量権が与えられているということは、期待されているってことだと思うから。エスカぐらい強くならないと。そうしたら私もレンジャーに入れてもらえるように、話してみる」

「待ってるよ」

エスカリョーネはにっこり笑った。

カレーを煮込んでから20分が経つ。レシピ上はこれで完成だ。エスカリョーネはスプーンでカレーをひとすくいすると、口につけた。野菜の味は相変わらずしなかったが、香辛料で味付けされた肉は絶品だった。

「うん、辛くて美味しい。こんな料理があるんだねぇ。ミスト、ご飯炊けた?」

「炊けたよ〜。パンも焼きたて。コンボイの運んできてくれた機材は凄いね」

ミストルティンは焼きたてのパンを熱そうに持ってきた。エスカリョーネはミストルティンからパンを受け取ると、それを3センチの厚さに切り分けていく。出来上がったカレーとご飯、パンは炊事場の隣に配置された机の上に並べていく。その頃には国際連合のキャンプの国際連合の兵士たちが目を覚まし、机の周りに群がっていた。

兵士たちはご飯とパンの好きな方をとり、それにカレーをかけて食べていく。辺りから美味しいという声が上がり、エスカリョーネとミストルティンはどこか誇らしげに胸を張った。

 

「そういえば、私にも先生がつくみたいなの」

食事を終え、片付けを始めたエスカリョーネは、ミストルティンにこう切り出した。ミストルティンはその言葉をゆっくり受け止め、答えた。

「そうなんだ。まだ会ったことは無いの?」

「うん。同居人のエンドラルくんから話を聞いただけなんだけどね。ミストの先生みたいに素敵な女の人だったら良いな」

「大丈夫だよ。入りたてだからかな。国際連合の偉い人達は、私たちがやりやすいように配慮してくれている気がするよ」

「えー、そうかな。ビスマルクさんはそんなこと無いけどな」

ミストルティンはあははと乾いた笑いを浮かべる。エスカリョーネはスプーンでミストルティンを指して言った。

「たぶん、ミストのところの隊長さん、ライロック・マディンさん?がそういうの好きなんだよ」

「そうかもしれないね。でも、私はビスマルクさんも優しいと思うな。エスカが話しやすいから、みんな砕けちゃうのかも」

「ミストは優しいねえ。まあ、私は期待せずに授業を受けてみるよ」

「そうだよ。まずは一度会ってみないと、どんな人かわからないから」

ミストルティンは両手を顔の前で合わせ、『頑張って』とエスカを鼓舞した。その頃には目の前の洗い物も片付いて、皆朝の仕事へと戻り始めていた。

「ミストちゃーん」

サンスポット・レイヤーの声がする。

「はい!じゃあエスカ。私行くね。また明日、お話きかせて」

ミストルティンは小さく手を振って、サンスポットの元へと駆けていく。エスカリョーネは両手で自分の頬を叩いた。

「私ったら愚痴ばっかり。これじゃミストに嫌われちゃうよ。楽しまなきゃ」

『その意気だ』

フレスヴェルグも口を挟んだ。

「そういえば、フレスヴェルグが私の第1の先生みたいなものだね。いつもありがとう」

フレスヴェルグは何も喋らなくなった。エスカリョーネはどこかこそばゆい気持ちを感じる。フレスヴェルグが照れているような、そんな気がした。

 

「エスカリョーネ」

1人でニヤニヤしていた彼女へ、エンドラルが声をかけた。エスカリョーネは飛び上がると、何事もなかったように最後のスプーンを片付けた。

「どうしたの?エンドラルくん」

「これから授業が始まる」

「ほんと!?楽しみだったの!片付けも終わったからすぐに行くね」

エスカリョーネはエンドラルに向けてウインクすると、水に濡れた手をタオルで拭いた。それからエンドラルに教室まで案内するよう促した。

 

2人が向かったのは、国際連合軍のキャンプの中央。そこには1つのホワイトボードと、それを囲むようにしていくつかの椅子が並べられていた。椅子には既に多くの子供達が座っており、空いているのは一番前と一番後ろの席だけだ。

「大盛況だね」

「一番前に行こう」

エンドラルが積極的に一番前の席を進めたことに、エスカリョーネは驚きを隠せなかった。

「エンドラルくんは授業が好きなの?」

「静かに」

エンドラルはホワイトボードを真剣に見つめていた。そこには『アクティブ・リスニング』との文字が書かれていた。そうこうしているうちに、会場に1人の男性が走ってきた。水色の髪を汗が濡らしている。

「ごめんなさい。遅れました!一点だけ言い訳させてください。カレーの大盛りを頼んだら、思いの外量が多くて、ついさっきまで食べてました」

子どもたちがどっと笑う。それから『先生カレー好き過ぎだろう』といった野次が飛ぶ。彼はそれを愉しんでいるようだった。

「突っ込んでくれてありがとう。私は子供の頃からカレーが好きで、ずっとカレーばかり食べてきました。週21回カレーを食べたこともあります。カレーソムリエの資格があったら、多分取れるんじゃないかな」

男性はハハハと朗らかに笑うと、ホワイトボードに目をやった。

「さて。今日はアクティブ・リスニングについて学ぶ日です。ですがその前に、今日は皆さんにニューカマーの紹介をしましょう。エスカリョーネ、前へ」

エスカリョーネは男性に名前を呼ばれたことに驚いたが、すぐに気を取り直して、緊張しながらも前に出た。

「エスカリョーネ、私たちは君をなんて呼べばいい?」

「は、はい。親しい友人からはエスカって呼ばれています」

「エスカ。可愛い名前だねえ。じゃあみんなも、彼女のことはエスカと呼ぼうか。エスカ、年は何歳?」

「16歳になりました」

「16歳。どこから来たの?」

「浮遊大陸から来ました。と言ってもピンとくる方は少ないでしょうか」

「いや、わかるよ。この中には、君のように浮遊大陸の出身の子もいるからね。私の住んでいる土地では、君たちの住んでいた浮遊大陸のことをルクシオンと呼んでいる。国際連合軍は、君たちの故郷を取り戻すために結成された部隊だ」

水色の髪の男性は、流暢に述べた。生徒たちの眼差しが真剣になる。男性はその空気をあまり望んではいないようだ。彼はおどけたように、エスカへ質問を続けた。

「では最後に。エスカ、あなたは何カップですか?」

「え、えと。私はって、何聞いてるんですか!」

男性はハッハと笑った。彼は最近、全世界の女性が胸の大きさをカップ数で測ることに気づき、この話題を好んで使うようになった。

「エスカ、ありがとう。おかげで場が和みました。席に戻ってください。今度は私の自己紹介をします。私はアイン・スタンスライン。この国際連合の総司令官をさせてもらっています」

エスカリョーネは目を見開いた。

(総司令官が先生をしているなんて、信じられない!)

「信じられないって表情をしていますね。確かに、総司令官が先生なんて前代未聞でしょう。だけど国際連合軍は、二大元帥が優秀だから。私は案外暇なんです。それに私は先生をやってみたかった。だからライロックに無理を言ってやらせてもらいました。それでこうして、生徒にセクハラをしています。はっは。もちろんまじめに授業もしていますよ」

アインは屈託なく笑った。エスカリョーネは、そんな彼に対して悪い気はしなかった。

「さて。時間も少ない。さっそくアクティブ・リスニングについて学びましょう。アクティブ・リスニングとは傾聴、つまり心を傾けて聴くことです。

普段何気なく話を聞いているとき、相手の話が終わっていないのに口を挟んでしまいませんか?何か別の作業をしながら、話を聞いていませんか?それは傾聴の世界ではNGです」

アインはホワイトボードに、あいづち、繰り返し、内容と感情という言葉を書いた。

「傾聴において、大事なことはこの3点です。聴き手は、話し手が安心して話せる笑顔で、相手の表情をよく見ながら、『はい』『えぇ』『そうなんだ』といったあいづちをうちながら、うなずきながら聴いていきます。

合間合間では、相手が言った言葉を繰り返したり、要約したり、相手の感情を汲み取る言葉を伝えていきましょう。相手の話を自分がどのように理解したのかを相手に伝えるためです。

このときに相手の感情にも意識を向けることが大切です。人間のコミュニケーションは、状況を説明するための言葉を発するだけではありません。感情も、人間のコミュニケーションの大事な一部分です。例えば怒っている人に対しては、怒っているという感情に共感して、『怒っているように見えます、何かあったんですか?』と伝えることで、相手は気持ちを受け止めてもらったという実感がわきます。

つまり、相手の感情や話したい内容に集中して、聞いた内容を要約したり、オウム返しをして確認を取ること。100%相手に集中して話を聴くこと。それが傾聴です。では早速やってみましょう。隣の人と2人1組になって、聴き手と話し手を決めたらスタートです。お題はそうですね、これまで一番嬉しかったことにしましょう。話し手は聴き手がオウム返ししやすいように、短文で話すことを心がけて。それでは、はじめ!」

アインは手を叩いた。クラスがうんと騒がしくなる。エスカリョーネは隣のエンドラルと目を合わせた。

「私達も、しよっか」

それを聞いていたアインが二人の間に割って入る。

「エスカ、君は一言一言がエロティック過ぎるな。そのBカップの胸を揉みしだかれないように気をつけてください。夜道に先生が出るかもしれませんよ」

「わ、私Bじゃありません!それに夜道に先生って、犯人は先生じゃないですか」

「おお、そうなるか。でも大丈夫、先生はもう心に決めた人がいるから。だからエンドラル、そんな心配そうな目で見るなよ。浮気はしないって」

アインはエンドラルの髪をなでる。が、エンドラルはその手を弾いた。

「リングリットに報告する」

「コラコラコラ、子供は素直な方が可愛いぞ。俺とお前の仲じゃないか?エスカ、君からも説得してくれ」

「どの口が言ってるんですか。私が一番の被害者ですよ」

そこまで言って、エスカリョーネはあははと笑った。

「エンドラルくん、ひとまずこのエロオヤジは放っておいて、これまで一番嬉しかったことについて話そう?私、エンドラルくんのことがもっと知りたいんだ」

アインはその言葉にずっこける。エスカリョーネは目をキラキラさせてエンドラルを見つめた。エンドラルはその視線から目線を逸らしながらも、ゆっくりと話をし始めた。

エンドラルがこれまで一番嬉しかったこと。それはアインとリングリットによって奴隷炭鉱から助けられた際、ある言葉をかけてもらったことだった。

 

話は1年と半年前に遡る―—。

 

***

 

ハーネスライン西の乾燥地帯サイナピアス。

この国には垂直に切り立ったテーブルマウンテンが100以上ある。そこには、奴隷を使い鉱石を発掘する、奴隷炭鉱が広がっていた。炭鉱の奴隷たちは、食べ物や飲み物も満足に与えられず、報酬も無く、何かきっかけがあれば鞭で打たれた。人々は恐怖と暴力によって支配されていた。

エンドラル・パルスの住む奴隷炭鉱も、その中の1つだ。彼はこの奴隷炭鉱で、シャベルを使って、毎日身体が動かなくなるまで、穴を掘り続けていた。体調が悪い日も、鞭を打って働かされたから、身体的には苦痛だった。しかし精神的な苦痛はそれほど感じなかった。やるべきことが毎日与えられたし、仕事にも達成感を感じる場面があったからだ。例えば自分の掘った穴に鉱石を見つけた時、それが自分のものにならないとわかっていても、どこか誇らしさを感じられた。

エンドラルは当時8歳にして、既に奴隷としての生活に慣れていたのだった。

彼は物心ついた頃には奴隷だった。両親と暮らした記憶もない。周囲の人間と打ち解けることもなく、一週間無言で過ごしたこともあった。奴隷として穴を掘り続け、鉱石を見つけることだけが、彼の生きがいとなっていた。

 

そんなある日、突然、奴隷炭鉱が変わり始めた。奴隷たちは各テーブルマウンテンの中央に集められ、仰々しい雰囲気の中、炭鉱を機械化するという宣言が行われた。奴隷たちには就業の自由、選択の自由が与えられた。奴隷たちの多くは両手を上げて歓喜し、涙を流した。

 

しかしエンドラルは突然訪れた自由に戸惑い、自分の「ねばならない」「するべきである」仕事を探していた。そんな時だ。アイン・スタンスラインとリングリット・ラインカーネーションに会ったのは。

 

リングリットは、落ち着かない様子で目をキョロキョロさせていたエンドラルを、優しく抱きしめてくれた。

「大変だったね」

リングリットは涙を浮かべてそう言ってくれた。リングリットの小さくて華奢な身体が、エンドラルには空のように大きく感じられた。

「顔が汚れてる。じっとしていて。君の名前は?」

リングリットはハンカチでエンドラルの顔を拭きながら問うた。

「エンド、ラル」

「エンドラル。いい名前だね。これから、やりたいことはある?」

エンドラルは首を振った。

「それなら、俺たちと一緒に国際連合のスタッフとして働かないか?」

アインが声をかけた。少年は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。

「悪い悪い。色々と言葉が足りなかったな。エンドラル、知っているか?この世界はものすごく広いんだ。このテーブルマウンテンから一歩出れば、世の中には習慣も食べ物も違う色々な国があり、髪の色も眼の色も違う様々な人々が住んでいる。そんな世界の中で、人々が手を取り合って過ごせるように、様々な。例えば言葉の翻訳や国際交流の場をセッティングする。といった取り組みを行っているのが、国際連合というグループなんだ。俺もリングリットも、そのスタッフとして働いている」

アインは穏やかな声色で説明した。エンドラルは困惑の表情を浮かべる。

「難しかったか?」

「そんなことない」

エンドラルは首を振った。アインは笑みを浮かべて、再度問うた。

「やりたいか?」

「わからない」

アインはリングリットと視線を合わせてはにかむと、エンドラルを愛でるような目で見ながら言った。

「エンドラル、君はこれまで誰かからの『こうしなければならない』『こうするべきだ』という命令に耳を傾けて、従順にこなしてきただろう。そんななか突然自由にしていいよと言われても、何をしたら良いかわからないよな。けれど『こうしなければならない』『こうするべきだ』っていうのは、不条理な思い込みなんだ。人生は、『こうしたい』から始まるべきで、『こうしたい』を見つけたら、『上手くいけば良い』くらいの軽い気持ちで、挑戦してみることが大事なんだ」

アインはエンドラルの頭を撫でて、笑顔を浮かべた。

「けれど『こうしたい』ことなんて、なかなか見つからない。君はまだ若い。俺達と一緒に、色々な世界を見て回ろう。そして君が『こうしたい』ことを見つけたら、違う道を歩めば良い。誰もが行きたい道を行く、そんな社会が、1番良いと思うから」

この言葉がきっかけで、奴隷炭鉱の歯車の1つだったエンドラルは、自分で人生を動かし始めることができた。彼にとって一番忘れられない、一番嬉しい思い出だ。

 

***

 

「いい話だねえ」

エスカリョーネは目に涙を浮かべて聴いていた。

「あなた、ただのエロオヤジじゃなかったんだね」

「ほっとけ」

アインは照れるように笑った。

「エンドラル、覚えていてくれてありがとうな。嬉しいよ」

アインはエンドラルの頭をなでた。エンドラルは表情に出さなかったが、どこか嬉しそうだった。アインはエンドラルに聞こえないよう、小声でエスカリョーネに囁く。

「エスカ。エンドラルはサイナピアスでの生活で、感情をあまり顔に出せなくなっちゃったんだ。君の力でエンドラルを笑顔にしてあげてください。よろしくお願いします」

アインはエスカリョーネに頭を下げた。エスカリョーネは、こんなに謙虚で素直で、誠意に溢れる人物がこの世の中にいるのだと感心した。

「はい。一緒に楽しい話をしていけたらと思います」

エスカリョーネの返答を聞き、アインは満足そうに頷いた。

 

エスカリョーネはこの時、強く感じた。

(この人は、エンドラルを笑顔にするために、授業を始めたのかも)

彼女はアインをしげしげと見、にっこりと笑顔を浮かべた。

 

その時、フレスヴェルグの意識が突如明確になる。

『これが、あの男を熱狂させた男か』

(フレスヴェルグ?)

『お前にも知ってもらう必要があるだろう。あの時何があったのか』

フレスヴェルグは怒りとも哀しみとも言えぬ感情をたたえていた。フレスヴェルグの感情にあてられ、エスカリョーネの意識が遠のいていく。

(え?何?頭が、揺れる)

エスカリョーネはその場に座り込んだ。

 

フレスヴェルグの昔話は、ヴィヴァリンに始まる。

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