ジェダは、人間のチームによって付与された義眼を愛でていた。彼女はポロプリズム式の双眼鏡が組み込まれたマスクを着け、ミクロの世界に傾倒していった。ユンケルは自分を頼らなくなったジェダを頼もしく思いつつ、寂しさを感じてもいた。
「ジェダが最近、僕のことを避けているように感じるのです。不思議なものですよね。僕は、自分で自分が嫌いになってきた。これまで大好きな妹に、無償の愛を注いできたのに、今ではその愛に見返りを求めている。何も返してくれない妹に、苛立ちを感じている、なんて」
「ユンケル。それは正常な反応だよ。人間は皆、与え続けたり、与えられ続けたりするだけでは、満足できない。与えたら見返りを求めるし、与えられたら何かお返しをしなければならないと感じる。難しいのは、何かを与えられている時、相手が見返りを求めていると気づいたら、お返しをしたくなくなる心理だ。見返りを求めない施しにのみ、返報性の原理は働く。もしユンケルがジェダからお返しをもらえなくなったと感じるなら、自分が見返りを求めていることが、ジェダに気づかれていないかを振り返ってみるといい。恩着せがましく、相手からの反応を期待していないか。苦しいと思いながら、彼女のために動いていないか。ほんとうに重要なのは、ユンケル自身が自分の気持ちを尊重して行動することだ。やってあげた、という気持ちでは 自分も相手も喜べない。おそらく。彼女は目が見えるようになり、色々なことがわかるようになってしまったのだろう」
「鋭いですね。僕はこれまで彼女に依存してきました。それが見抜かれているんだな。彼女と離れて、進むべき道を真剣に模索する時が来たのかもしれません」
「君に、全ての物事の真理となる言葉を伝えよう」
カリアス・トリーヴァはもったいぶって話した。ユンケルはこの後カリアスの言った言葉を、生涯胸に刻んで生きることになる。
「『すべての物質は原子からできていて、永久に動き回る小さい粒子はいくらか離れている時はたがいに引き合うが、無理やり押し付けられると反発する』。これはかつてリチャード・フィリップス・ファインマンという男が、全ての科学知識が失われた後にたった1つのメッセージだけを残すことができるなら、どんな文章を残すかと問われ、答えた言葉だ。この世界ではまだ、原子、アトムは発見されていない。しかし君なら、それが何を指しているか漠然とわかるはずだ。あらゆる生物の細胞を形作る最小の単位、それが原子だ。いうなれば人も、原子の集まりなのだ。そして人間自身の振舞いも、この原子の動きに似ていると思わないか?」
「いくらか離れている時は互いに引き合うが、無理やり押し付けられると反発する」
カリアスの問いに、ユンケルは探り探り言葉を紡いだ。
「そうだ。原子同士が反発しない距離で安定した時、原子は分子と呼ばれる化学的性質を持つ塊となる。水素、酸素、アンモニア。それらは全て原子同士が絶妙な距離感で結びついた結果、生まれたものだ。
では、この動きを人間に当てはめたらどうなる。人間という個体が、絶妙な距離感で結びついたとき、どうなる。絶妙な距離間とは、依存だけでも自立だけでもない、相互依存と呼ばれる状態にあることだ。もしそれが実現できたなら。世界にイノベーションが生まれる。これは原子の動きそのものだ」
ユンケルはこの時、カリアス・トリーヴァが感じている科学への可能性に共感した。
「カリアス、あなたの知識を僕に与えてくれませんか。ただの傀儡にはならないよう、努力はします。けれど人に残された時間もないのでしょう」
ユンケルの言葉は、カリアスの望んだものだった。つまり、ある程度技術レベルの高い科学者が、自由意志でカリアスの知識の再現に従事する。それは、2人が分子になるということだ。レオナルド・ダ・ヴィンチですら、たった1人で偉業を成し遂げることは出来なかった。理解者がいて初めて、天才は何かを創り続けることができる。
「ユンケル。感謝する」
「僕も人間の底力を見せたいんです」
ユンケルは言って、笑った。彼はどんなカテゴリの研究でもかまわないから、人類の文明レベルを引き上げる研究がしたいと申し出てくれた。
「ならば、君には父親と同じ道を進んで欲しいと考えている。それはかつて化学工業の一基幹となったハーバー・ボッシュ法の再現だ」
「ハーバー・ボッシュ」
「これから君には、人類の50年分の進化を半年で経験してもらう。まずは元素周期表を作成しよう。元素とは、1種類の原子によって構成される分子のことだ。物質をわけていったときに、最後に得られるまとまりだということもできる。この元素を重さの順に並べたのが元素周期表だ。何故重さに焦点を当てるかは、後々わかるだろう。とにかくこれを示すことで、デロメア・テクニカの科学者に元素の存在と、将来的に発見しうる元素を示すことができる。それが出来たら、化学式を使って、化学反応を式に表すのだ。これは人類を錬金術から解き放つ突破口となる」
ユンケルはカリアスの言葉を熱心にメモしていた。
「ユンケル。ハーバー・ボッシュ法は、水素と窒素を高温高圧で反応させ、アンモニアを生産する方法だ。触媒には四酸化三鉄を用い、ルシャトリエの原理を利用する。わからない言葉は後で聞いてもらうとして。ここで私が君に伝えたいのは、これが水と石炭と空気とからパンを作る方法であることだ。ハーバー・ボッシュ法によって作られるアンモニアは、土壌に窒素を供給する窒素肥料を生成できる。これにリン鉱石やカリ鉱石を加えた化学肥料は、単位面積あたりの農作物の収穫量の限界を克服する手立てになる。人は科学によって超越するのだ。この星の定めた許容人口すらも」

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第1項 刑務所から始めよう

第2項 ダイナマイトと時の歯車

第3項 科学発展の基礎

第4項 魔女狩り

第5項 自由意志と豆の木

第6項 プラチナブロンドの兄妹

第7項 心の相互作用

第8項 科学者の協働

第9項 アトム←いまここ

第10項 熱力学と鋼の世紀

第11項 電磁気の姫

第12項 マイノリティカルストラテジー

第13項 電気椅子とキャズムの溝

第14項 プロジェクトレボリューション

最終項 ギブ・アンド・テイク

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